何年ぶりでしょうか。京都に出かけてきました。
特に予定を立てることもなくその日の気分で行ってみたいところへ出かける、そんな行き当たりばったりの旅にすることにしました。
細川ガラシャ夫人の墓所が置かれた大徳寺高桐院は京都に住む知人のおすすめのお寺でした。
大徳寺の中でもとりわけ奥に位置する静かな塔頭。門をくぐるとそこは一面の緑でした。降り注ぐ雨は竹林、楓のトンネル、苔の絨毯の緑を一層鮮やかに見せ、それは幻想的でした。
強く降りだした雨が幸いしてかゴールデンウィークにもかかわらず人影はまばらでした。
利休七哲の一人でもあった細川忠興のお茶室「松向軒」の前に立った時、当時の人々の心情が伝わってくるように感じました。
自分や大切な身内の明日をも知れぬ時代に生きた人々。平和な時代に生きる私たちには計り知れない不安を常に抱えていた彼らが心を無にして平常心を保つ。お茶を立てるという時間はそのためのものだったのでしょう。茶道に対して今までに持っていたイメージは花嫁修業、行儀作法といった女性的なものでしたが、ここに来て「動」を敢えて「静」に移していく凛とした力強さを感じえずにはいられませんでした。お茶を習ってみたくなりました。
葉に、屋根に、手水鉢に、砂地に、苔地に落ちる雨の音。こうしてあらためて聞いたのはいつが最後だったのでしょう。縁側でお庭を眺めながら思いました。
確か子どもの頃には聞いていました。外で遊べないことを恨めしく思いながら軒下のてるてる坊主を見つめているとガラス越しに耳に入ってきたものでした。
庭の池に、紫陽花や棕櫚などの大きな葉っぱに、細い松葉に並んだ雨の雫が風でパラパラと落ちる音、樋を伝う雨だれ、片付け忘れていたバケツから出る不思議な音階、、、それぞれが色々な音を奏でていました。
大人になって時間に追われる生活となり、機密性の高い家の中では常にCDかテレビの音。いつの間にかこういう時間を忘れていたことに気がつきました。
残念ながら都会ではその音の種類も少なくなってきましたが、たまには窓を開け放して雨の音を聞き分ける余裕や楽しみも持ちたいものです。そう考えると、いつも憂鬱になっていた雨の日が違って見えてきそうです。
翌日は昨日の雨が嘘であったかのように気持ちよく晴れ上がりました。雨の京都と皐月の風が流れる京都とではまったく違う表情です。
東福寺の洗玉澗をおおう楓樹の緑は瑞々しく風にそよぎ、その隙間には爽やかな青空がのぞきます。今この空間に身を置けたことに小さな喜びを感じました。
ここでは楓とともにたびたび見かける市松模様が印象的でした。開山堂庭園の砂紋で描かれた市松、方丈「八相の庭」の北庭、敷石の市松、西庭のさつきの刈込と砂地の市松。使われている素材は古風な和でありながら、よく見るとその意匠のバランスは現代を感じさせます。
夜間拝観ができるというので、ねねの高台寺へ行ってみました。東山通から細い迷路のような路地を上がっていきます。静まり返った通りに並ぶ民家や小さな宿の入口はどこも整然とした「和」を漂わせていました。この雰囲気は東京では味わえないものです。
夜の高台寺は何とロマンチックだったことでしょう。臥龍廊の赤い欄干とほとりを囲む樹木がライトアップされた臥龍池に映るさまは夢の中の風景のようでした。開山堂を隔てて反対側の偃月池には観月台がありますが、ここでねねは月を見上げながら亡き夫秀吉との想い出に浸ったのでしょうか。華麗な高台寺蒔絵の施された厨子の扉は開かれ、仲良く並んだ秀吉と北政所は私たち拝観者を歓迎してくれているようでした。下からグリーンでライトアップされた竹林では「竹取物語」の1ページに紛れ込んだような錯覚を起こさせます。境内を一周して戻ってくると方丈前庭では枯山水に配置されたメタリックなオブジェをライティングの演出で古と新の融合を表現していました。主役はきっとここの大きな桜が咲き誇っていた頃なのでしょう。翌日で春の夜間拝観は終了とのことでした。
気分転換にでもなればと気軽に出かけた京都でしたが、そこで偶然出会えた「古」、「美」、「自然」、「味」、「人」は、忘れていたことの回顧と新しい発見をもたらしてくれました。
まったく違った環境に身をおいてみると時間の流れも感性も発想も違ってきます。そんな場所は国内にもまだまだあるものなのですね。たまには思い切って時間を作ることにしました。
最後に町を大切に保存していらっしゃる京都の方々に尊敬と感謝の意を。
(May.10.'02)
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